<第二巻 下つ巻 第十一帖>
■草木さえ神の心に従っているではないか。神の旨にそれぞれ生きているではないか。
あの姿に早う返りてくれよ。青人草と申すのは、草木の心の民のことぞ。
■道は自分で歩めよ。御用は自分で務めよ。人がさしてくれるのではないぞ。
自分で御用するのぞ。道は自分で開くのぞ。人頼りしてはならんぞ。(日津久神)
*欲深い人は、人を頼りにし、その成果を自分のものにしたいというのが特徴の一つです。
<下つ巻 第十二帖>
■この神は、日本人のみの神でないぞ。
自分で岩戸開いておれば、どんな世になりても楽にゆけるように神がしてあるのに、
臣民というものは欲が深いから、自分で岩戸閉めてそれでそれでお陰ないと申してい
るが、困ったものぞ。早う気づかんと気の毒できるぞ。(日津久神)
*やはり自分の岩戸開きからですね。
岩戸開きを、物を欲しがるように求めるのは、お門違いどころか、真反対に道を進んでいる。
自分で探求、考察せずに、他から解答を求めたら、岩戸を開くチャンスを失います。
*次の「第十三帖」のしょっぱなからの喩え、面白い。
■逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。
頭下で、手で歩くのは苦しかろがな。上にいては足も苦しかろがな。上下逆さま
と申してあるが、これでよく分かるであろ。足は、やはり下の方が気楽ぞ。この
道理分かりたか。
岩戸開くとは、元の姿に返すことぞ。神の姿に返すことぞ。(日津久神)
*上下逆さまのことを仏道では「顛倒(てんどう)」と言います。
真実の見方からすると、逆さまの考え方を持つことです。
大神様の喩え方、余裕があり、「この道理分かりたか。」の決め神示もでました。