一二三(一)下つ巻 第十一帖

<第二巻 下つ巻 第十一帖>

 

■草木さえ神の心に従っているではないか。神の旨にそれぞれ生きているではないか。

 あの姿に早う返りてくれよ。青人草と申すのは、草木の心の民のことぞ。

 

■道は自分で歩めよ。御用は自分で務めよ。人がさしてくれるのではないぞ。

 自分で御用するのぞ。道は自分で開くのぞ。人頼りしてはならんぞ。(日津久神)

 

欲深い人は、人を頼りにし、その成果を自分のものにしたいというのが特徴の一つです。

 

<下つ巻 第十二帖>

 

■この神は、日本人のみの神でないぞ。

 自分で岩戸開いておれば、どんな世になりても楽にゆけるように神がしてあるのに、

 臣民というものは欲が深いから、自分で岩戸閉めてそれでそれでお陰ないと申してい

 るが、困ったものぞ。早う気づかんと気の毒できるぞ。(日津久神)

 

やはり自分の岩戸開きからですね。

 岩戸開きを、物を欲しがるように求めるのは、お門違いどころか、真反対に道を進んでいる。

 自分で探求、考察せずに、他から解答を求めたら、岩戸を開くチャンスを失います。

 

次の「第十三帖」のしょっぱなからの喩え、面白い。

 

■逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。

 頭下で、手で歩くのは苦しかろがな。上にいては足も苦しかろがな。上下逆さま

 と申してあるが、これでよく分かるであろ。足は、やはり下の方が気楽ぞ。この

 道理分かりたか。

 岩戸開くとは、元の姿に返すことぞ。神の姿に返すことぞ。(日津久神)

 

上下逆さまのことを仏道では「顛倒(てんどう)」と言います。

 真実の見方からすると、逆さまの考え方を持つことです。

 大神様の喩え方、余裕があり、「この道理分かりたか。」の決め神示もでました。