釈尊が「識別作用」の止滅と「名称と形態」の滅を説いたのは、ここから「無願」欲しがらないこと、そして「苦」を解き明かすチャンスをつかませようとしているからのように見えます。また「(名色の)無常観」により錯覚(顚倒)をなくせるよう導いているのでしょう。
「名称と形態」についての圧巻の説法はスッタニパータ<869>から<874>です。ここの理解は、難しいかもしれませんが、なんとかあきらめずに理解しようとすることから、上記の洞察へと導かれるように思います。
経典は地図のようなものです。この(経典の)確認を怠らず、自分の足でコツコツ歩みを進めることが大切です。
釈尊(如来)の説法を直接聞けた当時の人たちは恵まれた境遇でした。しかし今の時代にも菩薩はいるでしょう。
彼(ら)は自らの世界(宇宙)をもっており、そこで自らの法の華(はな)を咲かせようとします。
その新たな理法(宇宙の摂理)は今後どのように展開してゆくのでしょうか。
【追伸】
「無願」の理解において、「働く、仕事する」などは、「欲しがるの」のではなく逆に「与えること」に近い。与えるから財産や幸福に恵まれる(福徳がある)のだと思います。