無量義と名づける法門

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「苦」の真理を言葉にすることはやさしいことなんだけれど、これは自分で見つけないと価値がない。また、「平等」においても、自分がどういうところで錯覚に陥っているのか自分で気づけないと、その理解が役立たない。でないと、(一)大事因縁が起き得ない。

 

また、それはその「やさしい」がゆえに、自分(の内側)のちょっとしたことだと思っている隠れた悪が、その見出しを阻んでいます。

 

もちろん、因縁があっての創造識の覚知(智慧が生じること)が完成ではありません。無量の教えを生じる知にいたるまで歩みつづけ、真(まこと)の法を説けるようになってこその完成なのでしょう。

 

『正しいさとりを得た尊敬さるべき日月燈明如来は、偉大なる説示(無量義)と名づける法門ーーそれはすべての仏陀が支持するところの広大な経典であり、菩薩のための教えであるーーを説かれました。説き終わってから、その刹那、その瞬間に、その同じ人々の集まりにおいて、その同じ偉大な法座の上で結跏趺坐して、限りなき説示の基礎(無量義処)という名の三昧にはいられて、・・・・・・その世尊が(無量義処)三昧にはいられるやいなや、実にまた、天の花であるマーンダーラヴァ、大マーンダーラヴァや、マンジューシャカ、大マンジューシャカの大きな花の雨が降りそそぎ、かの世尊と周囲のものの上にふりまかれました。そして全仏国土が六種に振動しました。(法華経)』